藤野屋が昭和52年に【平飼いたまご】の販売を始めて、40年あまりが過ぎました。美味しくて安全で大変質がよいことで知られる【平飼いたまご】ですが、当社が手がける平飼い養鶏を語るうえで、欠かすことのできない人物が、養鶏業界における「平飼いたまごづくり」の草分け的存在である荒牧 光さんです。
今回は荒牧さんをお迎えし、当社とのご縁から、平飼い養鶏に出会ったきっかけ、さらに現在の想いまで平飼いたまごの魅力について、じっくりと語っていただきました。
藤野屋と荒牧 光さんとの出会い
――藤野屋が平飼いたまごの販売をはじめるきっかけとなったのは、先代社長の時代に、荒牧さんとの出会いがきっかけとなったと聞いていますが、どういったいきさつでご縁がはじまったんですか?
荒牧さん>それは私が養鶏業を本格的に始める際に、当時の地元の仲間達と、昭和38年に「協栄養鶏組合」を立ち上げたころの話にさかのぼります。発足当初、組合のメンバーみんなで力を合わせ、山から木を切って鶏舎を手作りし、最初は1戸200羽の合計3000羽から養鶏を始めました。
「品質の良い最高のたまごを作ろう」と私たちは日々努力していましたが、そのためには環境はもちろんのこと、鶏が食べるエサもまた、安全で安心できるものでなくてはなりませんでした。
安全で良質な飼料を提供
そこで出会ったのが、藤野屋の現・会長のお父様であり、当時、社長を務められていた先代の甲斐誠一社長さんです。
私は先代に「地域のみんなで力を合わせて日本一のたまごを作りたい!」という熱い想いを伝えたところ当時、家畜飼料の販売を営んでいた先代が、大いに賛同してくれ、飼料メーカーに新製品を製造させるなど、私たちと一緒に四方八方に手を尽くしてくださったんです。
そのおかげで値段も重量も、さまざまな条件を満たした選りすぐりの飼料を「協栄養鶏組合」で扱うことが決まりました。
――甲斐会長は当時、その決断についての想いを、先代から聞いたことはありますか?
甲斐会長>父は、本当にいいものを作ることが何よりも大切という考えを常に持っていましたから、荒牧さんの養鶏と地域おこしに対する姿勢に惚れ込み、将来を見越してお付き合いを始めたんだと思います。
荒牧さんの養鶏に対するこだわりや取り組みは、藤野屋が商売をするうえでのこだわりと、どこか共通するところがあったんだろうなと。
農家から養鶏農家へ
――先代と荒牧さんの貴重な出会いがあってこそ今があるのですね。ところで、荒牧さんが養鶏業を始めたきっかけについて教えてください。
荒牧さん>私はもともと農業を営んでいたのですが、昭和33年に、子どもたちの世話をしてくれていた母が亡くなりました。そこで、まだ赤ちゃんだった長男の子守を近所の方に頼むことになったんです。
やがて息子の成長とともにだんだんと手がかからなくなってきたので、その子守の方に子どもの世話をしてもらいながら、片手間で鶏に餌をあげる仕事もお願いしよう!ということになり、鶏舎を作って100羽くらい鶏を飼うことにしました。それが一番最初に養鶏をはじめたきっかけです。
恩師・柴田利雄先生との運命的な出会い
――では、そこからどのようにして平飼い養鶏を学んだのでしょうか?
荒牧さん>平飼いたまごを始めるようになったのは、ある人との運命的な出会いがあったからなんです。
昭和39年当時、農業に忙しかった私は、日ごろの労をねぎらうために、妻と熊本県の菊池温泉に旅行に出かけました。すると、そのとき泊まった旅館で「養鶏大講習会」と銘打った講習会が行われていたんです。少しですが鶏を飼っていた私たちは「ぜひ話を聞いてみたい」と興味をもち、その会に参加することにしたのです。
その講習会は、兵庫県姫路市から熊本へ来た、農業養鶏の第一人者である柴田利雄先生によるもので、農業をしながら鶏を飼い、最高のフンを作って循環させるという最先端の平飼い養鶏農法についてのお話でした。
私は「自分の今やっている農業や養鶏にとっても非常に興味深く勉強になる話だ!こんなに面白い話、たった一晩話だけでなくもっと聞いてみたい!」と、その奥深い養鶏のノウハウはに引き込まれて行ったのです。
そして、この貴重なお話の続きをどうしても聞きたい、と思った私は、「私がまとまった人数を集めるので、ぜひ久住まで来てこの講習会を開いてくださいませんか?」と、大胆にも先生にお願いしたんです。ダメでもともとの気持ちでしたが、先生にもこの熱意が伝わったのか、本当に来ていただけることになりました。
その後、近隣の農家を営む仲間たちの夫婦15組が集まり、柴田先生による大講演会開催しました。
「協栄養鶏組合」の結成
――その講演会を機に、荒牧さんは本格的に養鶏業を行われたんですね。
荒牧さん>柴田先生から学んだ平飼い養鶏農法をもとに、講演会に参加したメンバー同士で助け合いながら、安定的なたまごを生産しようと「協栄養鶏組合」を発足したんです。
甲斐会長>この柴田先生は、養鶏について日本全国を講演してまわっていたすごい方だと聞きました。当時は大分県よりも熊本県農業の方が、はるかに養鶏が進んでいたので、熊本県の菊池温泉に行かれていたようなんですが、熊本の養鶏農家の方のために行なっていた講演会で、たまたま荒牧さんと出会ったのも何か運命的な「ご縁」だったのでしょうね。
荒牧さん>そう!まさに人との出会いがもたらしたご縁ですよ。そのとき私が妻と温泉旅行に行っていなければ、柴田先生にも、もしかしたら平飼いたまごづくりにも出会ってなかったかもしれませんから。
――本当に、運命の出会いですね。柴田先生に教わった最先端の養鶏農法とは具体的にどんな内容だったんでしょうか?
バクテリアの分解パワーのすごさ
荒牧さん>このころ私は実際に鶏を飼っていたので、養鶏の知識はもちろんありましたが、柴田先生の講習会で聞いた話は、今までの常識と180度違っていました。
柴田先生の話を聞くまでの養鶏法では、ワラを敷いて鶏を平飼いで放すと、そのワラが鶏のフンなどで湿ってくるので、その都度取り換える、というやり方でした。
ところが柴田先生は「鶏糞はとらなければ、とらないほど臭くない」というのです。
――鶏糞が臭くない?どんな仕組みなんですか!?
荒牧さん>最初に鶏舎を作るとき、土の上にワラを切って、分厚く敷くのですが、ワラのなかには、納豆菌と同じようように自然の菌があるんです。敷き詰めたワラのなかに、鶏糞が落ちるとその菌が発酵して自然分解し、鶏糞を鶏舎の土壌にとって、とても良いものに変えてくれるんです。
さらに、その上を鶏が元気に歩き回ることで、うまく菌が混ざり合い、土も菌も育っていきます。その結果、臭いもなく湿りもせず、ハエやウジ一匹いない、とてもいい状況を保つことができます。
平飼いのたまごづくりで、鶏が暮らす床は「肝」といえるくらい大事なんですが、私はこの土壌づくりを、もう55年間やっていますが、鶏糞は増えたときに少し取り出すだけで、あとは全然取り換えません。
スコップで掘ると、すごく深く鶏糞があるけど臭いも何もしないことがこの養鶏法の特徴ですね。
――当時の常識を覆す画期的な自然農法だったんですね。
甲斐会長>人工的なものではなく、自然界に昔からいる菌をうまく利用して育てているということです。当時から大分どころか、全国的にもこの手法を実践している人は少なかったのですが、おそらく今は、ほとんどいないと思います。
鶏舎の建設を支援
荒牧さん>藤野屋の先代社長の支援のおかげもあって「協栄養鶏組合」では、その頃から平飼い養鶏による非常に良質なたまごを作ることができました。
そこで、次はこのたまごを最大限に評価してくれるところはないか?と考えをめぐらせたんです。
そのとき、柴田先生の教え子で養鶏を営んでいる方が作ったたまごを、インフルエンザワクチン生成のために、熊本のワクチンメーカー「化血研(化学及血清療法研究所)」に出荷しているという話を聞き、我々もいいたまごを作って化血研に出したい、との想いが芽生えてきました。
化血研で採用されるのは、当然ながら出自のはっきりとした質のいいたまごでなくてはならず、ここに入り込むのは非常に狭き門でした。
ですが、私たちが育てているのは素晴らしいたまごだということを熱心にアピールし続けた結果、先方もその熱意に応えてくれ、ついに「協栄養鶏組合」は化血研と正式に契約することができたんです。
化血研で使われるたまごは、出荷前にふ化を専門に扱う「ふ卵場」にいくのですが、そこの方からも「荒牧さんたちが作る卵は、格段に違う。ぜひ種鶏場をつくってください」と依頼されるほど、質が高く生命力のあるたまごといわれたんですよ。
その後も、順調に生産を続け、「協栄養鶏組合」で出荷したたまごは生存率がバツグンに高く、化血研で1位の成績を残すことができました。
これは実に名誉なことでしたが、大変規模が大きな養鶏場の新設事業でしたので、この時も私は、藤野屋の先代社長に相談させていただきました。
すると、「今が勝負だから、わしが応援する!」と背中を押していただいたばかりでなく、新養鶏場の建設にかかわる資金協力をしてくださったおかげで、私たちは無事に鶏舎を建てることができたんです。今でもこのご恩は忘れていません。
甲斐会長>これもやはり、父は荒牧さんに対して「この男なら信用できる!」という確信があったんでしょうね。父は戦争も体験し、戦時中はパイロットとして飛行機にも乗っていたので、度胸もあったんでしょう(笑)
でも、結局はそれだけ荒牧さんを信頼していたということです。
めぐりめぐる、時の縁
甲斐会長>実は、その農場ができてすぐの昭和45年の11月に父が脳溢血で倒れたんです。当時私は百貨店勤めの会社員でしたが、すぐに帰って跡を継がなければならない状況でした。
そのとき荒牧さんは、養鶏について右も左もわからない私に、一からいろいろ教えてくれました。親代わりになってくれた恩人ですね、今でも本当に感謝しています。
荒牧さん>私は私で、先代の社長には大変感謝して恩を感じていましたからね。何かというとそうやってお互いに相談し合いながら今までやって参りました。
甲斐会長>ほんとに、荒牧さんとは親戚以上の付き合いをさせていただいていますね。荒牧さんとのご縁により、藤野屋は昭和52年から平飼いたまごを販売することになりましたが、今では私や父だけでなく、荒牧さんのご長男とうちの長男である社長がお付き合いをする時代に移り変わっています。
こうやって世代が変わっても、私たちのご縁はめぐりめぐって、ずっとつながっていくんだと思います。
元気で健康な鶏だからこそ、美味しいたまごが生まれる
――甲斐家と荒牧家、両家の深い絆があってこその、平飼いたまごの発展だったんですね。平飼いのたまごは、本当に濃厚で味わい深いですが、その美味しさのヒミツはいったい何なんでしょう?
甲斐会長>まずは、「日光のチカラ」です。太陽のめぐみをたっぷり受けていることでしょうか。
平飼いの鶏舎は東西に渡って立っています。南側があいているので、ほぼ一日中日光浴ができるのですが、やはり日光を浴びた鶏は非常に元気です。
人間でも同じですよね。暗いところにばかりいるより、明るい日差しを浴びた方がいい。元気な鶏は元気なたまごを産む。これは当然のことです。
荒牧さん>あと、さっきも話しましたけど「床作り」もすごく大切。
柴田先生から鶏舎の建て方まで教わっているのですが、天窓から入る光は鶏舎の一番奥までいくので、一日のうちにすべての部分に日が当たるようになっています。これは鶏のためでもあり、土のためでもあるんですよ。
生の鶏糞がどんどん落ちた土に日光が当たると、バクテリアと混ざり乾燥して、とてもいい状態の「床」になります。栄養や微生物が豊富な土をついばんだ鶏は体調が整い、さらに好循環を生み出すのです。
甲斐会長>そうですね。通常、養鶏場では消毒液を使うことも多いのですが、平飼い鶏舎ではそういうものは一切使わずに、自然の環境をうまく利用して養鶏をしています。これはまさに「快適養鶏」の極致なのではないでしょうか?
ストレスを受けず、すこやかに、のびのびと育てること
荒牧さん>それから、鶏が自然に近い環境のなかで「のびのびと育つこと」も大切です。
平飼いで育てたヒヨコは、ほんとにキレイに飛んで歩きますよ。状態のいい床のなかを、産まれたときから自由自在に飛んで回るんですから。やはりケージで飼っている鶏と、平飼いで動き回っている鶏は全然違いますね。
甲斐会長>人間でも同じですよね。運動をよくしている人は、筋肉質で強いですから。
荒牧さん>そうですね。細かく温度調節された温かい部屋に入れられて、ぎゅうぎゅう詰めの密度の多いところで育った鶏が産むたまごと、のびのびと羽根を伸ばして育った鶏が産むたまごでは、インフルエンザワクチンの成績も全然違います。
水と飼料にもこだわりあり
甲斐会長>うちの農場で取り入れている【BMW技術】※は、自然の浄化作用をモデルに、バクテリアの力によって活性化させた「生き物にとって良い水」が鶏の飲料水であり、トウモロコシを主原料にした栄養価の高い飼料を与え、鶏にとって最適なものを取り入れるようにしています。
要するに、元気で健康な鶏が育つ環境にあるからこそ、生命力あふれる良質で美味しいたまごが生まれるのです。
※BMW技術(B=バクテリア、M=ミネラル、W=ウォーターの略で自然浄化を基礎とする農法技術のこと)
必ず、このたまごが認められる日が来る
――美味しい卵づくりには何よりも健康に過ごせる環境が大切なんですね。今でこそ、品質にこだわった商品を求める人は増えてきていますが、平飼いたまご販売当時の世間の反応はどうでしたか?
甲斐会長>平飼いたまごの販売を始めた当時から、「いいたまごは、黄味と白味がきちんと盛り上がっている」という認識は一般の方も持っていたのではないでしょうか。
でもそのころは、いくら質が良いたまごでも、どうしてもケージ飼いで大量生産されるたまごと比較されるため「価格が高い」という点で、なかなか受け入れてもらえないことが多かったです。この時期は、我々にとっても我慢の時でしたね。
今はさまざまな種類のブランドたまごが揃っていますが、当時はまだ「たまごはスーパーで安い特売品を買った方がお得」という意識が高い時代でしたから。
でも、「いつか必ず、平飼いたまごの良さが認められる日が来る」という信念のもとでそのときは頑張っていました。
世界の人にも「平飼いたまご」の美味しを伝えるチャンス到来
甲斐会長>その信念は、「海外の人にも美味しくて新鮮なたまごを届けたい」という想いから平成28年7月に始まったシンガポールへの生たまご輸出事業にもつながっています。
これには3年の月日がかかりましたが、ちょうどこの輸出事業へのプロジェクトを始めた頃、農林水産省が、畜産物の海外輸出を広げようとしているときでしたので、東京に何度も足を運んで、農水省にたまごの輸出についてさまざまなご指導をいただきました。
また、大分県では家畜保健所とタイアップをして、定期的に農場に病気がないか、などの検査をしていただきました。その情報を農林水産省に何度も提出した結果、「私たちのたまごは大丈夫だ」という太鼓判を押されて、ようやく平飼いたまごが、シンガポールに輸出できるライセンス取得に至ったんです。
認可にたどり着くまでに苦労も多く、かなりの時間を要しましたが、「日本のたまごの素晴らしさや【たまごかけごはん】の美味しさを世界に広めたい」という想いがこれを実現させました。
――3年がかりの努力が実って、ようやく海を渡ることができたんですね。ご自分の手がけたたまごが、シンガポールにまで行くことになったことについて、荒牧さんはどう思われていますか?
荒牧さん>これはやはり、甲斐会長ご自身に「いいたまごをぜひ海外にも広めたい」という、意欲と信念があったからだと思います。
もちろん、私たちがつくるたまごの品質はどこにも負けない自信はありますが、そのような申請や手続きは大変な仕事ですからね。ですが、それを乗り越えて、立派に海外進出を果たしたことは、素晴らしいのひと言ですね。
手間もコストもかかる平飼い、でも世の中のニーズに応えたい
――一般的に平飼い養鶏は、手間ひまがかかることで知られていますが、生産性のいい方法もたくさんあるなかで、この手間を惜しまずに、平飼い農法を続けてこられたのはなぜでしょうか? お二人の平飼いたまごに対する想いを聞かせてください。
甲斐会長>そうですね、実は養鶏事業は、一般的に最小の経費で最大の効果をあらわす産業と言われているんですよ。
というのも、以前の養鶏業では、1人あたりの管理羽数は2000~3000羽くらいが普通だったんですが、技術の進歩によって、さまざまなことが機械で合理化されるようになり、1人で管理する羽数はやがて1万羽になりさらに2万羽、3万羽…と、どんどん増え続けているという現状があります。
でもそうなると、徐々に鶏は生き物ではなく、たまごを産む機械のような存在になってくるんですよね。それは経済社会におけるひとつの手法ですから、否定はできません。
しかし、関東など都市部での養鶏場であれば、そのような経営も成り立つでしょうが、私たちが同様のことをしても仕方がないので、やはり地方ならではの差別化をはかる必要があったんです。そういうわけで、平飼いにこだわり、今までずっと信念を持って取り組んで参りました。
荒牧さん>確かに、平飼い養鶏はコストも手間もかかるので、素晴らしい品質のたまごができるとわかっていても、簡単に取り組めることではありません。
ですが今ではもう、平飼いを行っている養鶏場は日本でもわずかにしか残っていないので、本当の美味しさをわかっていただければ、「少々高くても買いたい」という人はきっといるはずです。
甲斐会長>はい、実際に家族の健康を預かる「食に意識の高い」主婦の方を中心に、平飼いたまごの美味しさは認知されてきているんですよ。
私はそれと同時に、「良い物を少しだけ食べたい」と考える年配の方にもぜひおススメしたいですね。年を重ねると食べる量が少なくなりますが、その代わりに、少しでも質のよい食材を口にしていただきたいんです。
まさに今、ものすごいスピードで超高齢化社会が進んでいますからね。このような時代ならではのニーズに沿ったアプローチを行っているつもりです。
最後に
――お二人にお話を伺って、代々続くご両家の信頼関係なしでは、このような素晴らしい業績を成し遂げることはなかった、ということがよくわかりました。
荒牧さん>それは、やはり藤野屋の先代に出会ってから、お世話になったことがほんとうに大きいです。なかなか普通の人では成しえないようなことまで、私どものために尽力してくださったことに、今でも心から感謝しています。
私にとっては「人との出会い」がすべての始まりですね。誰と出会うかによって、人生が変わってきますから。平飼いたまごも、柴田先生をはじめ、さまざまな方との出会いにより、ここまで成長してこられたんだと思います。
甲斐会長>そうですね、荒牧家も甲斐家も、何か見えない糸でつながっているんじゃないかな、と思うほど縁を感じることが多いです。このご縁を大切にしながら、私どもにしかできない、平飼いたまごの美味しさや素晴らしさを、子や孫の世代まで伝えていきたいですね。
それと同時に、シンガポール輸出事業をきっかけに、世界中に日本のたまごの美味しさを広めていくことが、今後の目標です。
荒牧さん、本日はどうもありがとうございました。